ネット印刷発注サービストップ > 文学の散歩道 > 文人:柳原極堂
|
サイトマップ
ご来店ありがとうございます
印刷何でも相談
TEL/089-925-7473
FAX/089-925-7464
メール相談室
見積書PDF⁄110KB
発注書PDF⁄100KB
スタッフ訪問OK
印刷用語辞典
相互リンク集
営業日カレンダー
|

愛媛にゆかりのある歴史上の人物を紹介
ヤナギハラキョクドウ
柳原極堂 1867~1957
本名:正之、幼名:喜久馬。温泉郡北京町(現在の松山市二番町)に父、権之助、母トシの長男として生まれる。
明治14年に松山中学校(現松山東高等学校)入学。正岡子規と知り合い、親交を深める。子規と極堂はともに慶応3年生まれの同い年。
のち明治16年、松山中学を中退し上京、その後共立学校(現在の開成中学校)を卒業する。明治22年に松山へ戻り海南新聞社に入社。新聞記者の傍ら明治27年に「松風会」の会員となる。俳号は「碌堂」。子規帰郷の際は熱心に指導を受け、明治29年からは「極堂」と号する。
明治30年に月刊俳誌「ほととぎす」を創刊。子規の俳句革新を支援する。21号からは東京の虚子に「ほととぎす」は引き継がれた。
明治32年には松山市議会議員に当選し、以来明治38年まで市政の場で活躍。その間も海南新聞で連載記事「松山の人物」、「正岡子規君」を連載(子規は連載中に死去)し、俳句と子規に対して熱い思いを語っている。
明治39年に海南新聞を退社、「伊予日々新聞」を発刊。俳壇からは遠ざかっていたが、子規の新俳句普及への情熱は失っておらず、新聞社主催で俳句大会を行うなど、新俳句の振興につとめた。
昭和7年には東京で俳誌「鶏頭」を創刊。俳句作りに再び情熱を傾けるようになり、昭和29年に句集「草雲雀」を刊行。晩年は子規研究およびその顕彰に捧げた。昭和32年には地元愛媛への功績も大きく、松山市初の名誉市民にも選ばれたが、同年、90歳にて没する。
極堂と「ほととぎす」
「ほととぎす」は明治30年に編集人柳原極堂によって発行された。これは子規の推し進めている俳句改革をバックアップするため、新たに俳句専門誌を発行し、子規派の俳句を俳句会に浸透させようとする目的のためであり、あくまでも裏方として子規を支えるため、極堂が考え出したのが俳誌「ほととぎす」であった。しかし、発刊から号を重ねるたびに極堂は政党幹部として急に多忙になり、発行の維持が困難となってきた。そこで子規と極堂は中央にも新派俳句の機関誌が必要と考え、「ほととぎす」を高浜虚子へ譲って発行を東京に移すことにした。かくて「ほととぎす」は虚子により大きく成長することになり、現在まで100年以上も続く雑誌として存在している。
一方で極堂は「ほととぎす」を虚子に譲ってからは海南新聞の募集句の選者や、時々作る俳句を発表していた。しかし俳句界の表舞台から去っていくことになる。
寡作の俳人極堂
明治27年に極堂は「松風会」に入会したが、その頃は俳句作りよりも新俳句の普及に関心をもっていただけのようであった。しかし翌28年には帰郷した子規に松風会への指導を依頼し、自身も子規のもとへ通いつめるなど、俳句創作に力を注ぐようになる。
ただし極堂は子規と吟行を行い、子規が60句作る間に極堂は20句しか出来ないこともあるなど、作句のスピードは遅いようであった。一時期は俳壇から遠ざかっていたということもあり、寡作の俳人といわれている。しかし自然を詠んだ情緒ある風景句は子規にも評価され、風景句を揮毫した半折は書としても人気が高い。
春風やふね伊予に寄りて道後の湯
松風会名所詠みにおいて出来た句で、子規に激賞された俳句。
俳誌「鶏頭」の創刊以降は「子規と其郷里松山」の連載、子規句集「散策集」の発表、「友人子規」出版、子規堂の再建など子規顕彰に人生を捧げた。そんな極堂の人柄は今もなお多くの人達に慕われている。
吾が生はへちまのつるの行き処
極堂辞世の句。(自分の一生はへちまのつる(子規)の行く処であり。子規と共にある。)
|