マサオカシキ
正岡子規 1867~1902
批評家、俳人、歌人、ジャーナリスト。慶応3年9月17日生まれ。本名常規、幼名処之介、後に升(のぼる)。5才の時、病弱だった父の隠居で家督を継ぐが、その直後、父は死去。
勝山学校をへて、松山中学に入学。
明治16年、上京し、翌年、大学予備門に合格。夏目漱石と出会い、交友が深まる。5月、喀血。血を吐いて歌うホトトギスになぞらえて「子規」と号す。小説『月の都』を書くが、断念。陸羯南の主宰する新聞「日本」に入社。
明治27年、根岸の子規庵に転居。その後新しく創刊した「小日本」の編集責任者となるが、編集に参加した中村不折を通じて、写生の重要性に気づく。
明治28年、日清戦争従軍記者として遼東半島にわたるが、帰路、大喀血。神戸、須磨で療養した後、郷里の松山におもむく。激しい腰痛(のちに腰椎カリエスと判明)にも悩まされるようになり、以後、寝たきりの生活がつづく。
明治31年、東京にて「歌詠みに与ふる書」を「日本」に連載。「日本」の俳句欄の選者の他、散発的に原稿を発表するが、病状はいよいよ悪化。明治34年1月から『墨汁一滴』、9月から『仰臥漫録』を連載。
明治35年5月から『病状六尺』の連載をはじめ、死の二日前まで書きつづける。9月18日、絶筆三句を書き、翌日、35歳の短い生涯を終えた。
正岡子規・夏目漱石と松山
正岡子規は、松山市新玉町(現花園町電車通り西側)に生まれた。明治6年に末広学校(のち智環学校と改称)に入学後、勝山学校(のちの番町小学校)に転校した。
明治16年5月、松山中学校(現松山東高)を中途退学して上京、帝国大学文科で夏目漱石と知り合う。
明治25年8月中旬、子規を訪ねて松山に来たことのある漱石は、明治28年4月9日、愛媛県尋常中学校(松山中学校)の英語の教師として赴任。きどや旅館に泊り、城山山裾の「愛松亭」に6月下旬までいた後、二番町横丁の上野義方氏の離れに転居して、「愚陀仏庵」と称し、自らを「愚陀仏」と号した。
この年、子規は、従軍記者として日清戦争へ赴いた帰りの船中で大喀血をして、5月23日より神戸で療養後、8月松山へ養生に帰り、この漱石の仮寓におしかけ、50日間ここに滞在した。この間、地元「松風会」の句会が子規を指導者として「愚陀仏庵」で連日行われ、漱石も誘われて俳句に熱中するようになる。
「愚陀仏庵」での二人の生活はわずかな期間であったが、このとき子規に学んだことは、漱石の文学の本能をかきたて、明治34年4月、松山中学を舞台としてその体験記を記した小説「坊っちゃん」を発表した。
子規は、10月19日未明、三津浜から乗船して上京し二度と松山の地を踏まなかった。
正岡子規の詩と写生論
江戸後期以降、芭蕉崇拝が進む中で、正岡子規は芭蕉に対する批判者として俳句界に登場した。子規は評論「芭蕉雑談」の中で旧派宗匠の俳諧を攻撃し、その一方で蕪村の洗練された俳句を賞揚した。
一方、西洋ではルネサンス時代より、科学的精神の普及と共に、事物を正確に、緻密に表現する「写実的手法」が発達していた。子規は洋画家の中村不折との交流で西洋の芸術、哲学に接し、文学や美術において、事物の簡潔な描写が表現として大きな効果を上げると確信し、「写生」の手法の重要性を説いた。こうした考えから、子規の俳句は簡潔なスタイルを持つようになった。
子規の説く「写生論」とは、端的に言うと、「人の考えより自然の事物の方が、遙かに広がりを持っている」ということである。子規は「俳句」を確立させた一方で、文字数の少ない詩は作られる数に限界があることを考えていた。そこで、様々な変化を持つ自然の具体的描写を取り入れると同時に、余計な感傷的描写を避けることによって、詩に対象の広がりと陰影をもたせた。これは近代絵画の描写法と理論的に似ている。
「俳句」という分野を確立したのも子規である。子規は、「連歌形式の俳諧」の文学的価値を否定し、発句の箇所のみを詩として取り出し、独立させた。今日、連歌形式の俳諧は「連句」と呼ばれ、一部の愛好家のみが制作に携わっている。
正岡子規と野球
子規は、はじめて松山の地に野球を伝えた人物でもある。得意なポジションはキャッチャーで、河東碧梧桐や高浜虚子などにベースボールを教えている。子規は本名の“升(のぼる)”をもじり“能球”“野球”(のぼーる)というペンネームも持ち、短歌、俳句、小説など文学の題材にこれをとり入れた。
子規は2001年1月に野球殿堂入りを果たしている。
正岡子規と美食
子規は、大変な美食家・大食家でもあった。(意外にも幼少の頃は胃弱だったらしい)
「鍋焼きうどんを10杯食べる」「夕食後、夜食にそば屋で鴨南蛮と五目そば、その後餅菓子を三個食べ、夜中に嘔吐した」「山の中で木苺を見つけ、陽が傾くまで時間を忘れてむさぼり食っていた(当時26歳)」など、大食にまつわる逸話には枚挙にいとまがない。
「墨汁一滴」「仰臥漫録」など子規が記した書物には、彼の食生活に関する記述が多く見られる。刺身が好物で、34年9月などは、生活費の5分の1近くを刺身代に費やしたとの記録もある。味に対する好奇心も旺盛で、当時としては珍しい、カレーライス、シャンパン、ココアなども口にしている。
この食欲は、病に冒された後も衰えることがなかったという。子規の随筆によると、病状の悪くないときは、朝昼晩、飯または粥を3~4椀とおかずを口にしており、なおかつ間食、夜食を取ることもあったという。河東碧梧桐の著書にも「親子でも、鰻でも、食事を残すということがなかった」とある。若くして病床に伏した子規にとって、食の快楽は唯一の生き甲斐だったのかもしれない。